常識を疑え

常識を疑えいう題名なんですが…

まずは常識という意味を考えたいと思います。国語辞書

を見ますと「一般の社会人として、だれもが共通してもっている知識や分別」とあります。

このサイトを観て下さっている方は、ありがたい事に若い二世の方からお年を召された壮年のかた主婦のかたと様々とおられるようです。

 

そこで、UCにおける常識になっている信仰生活における「信仰基台と実体基台」の内容があります。

 

兼平講師の講義の中では、この内容については毎回と言っていいほどこの内容は初めに語られています。まだ見られてない方は観てくださいね。

 

「信仰基台・実体基台」

 

従来だと信仰基台が内的で「み言を訓読する事。敬拝する事。献金する事。」と言われています。そして実体基台が外的で「実際に人を愛する事。アベルとカインが一つになる。」それで信仰基台・実体基台ができてメシヤが来られるという信仰生活になっております。

 

兼平講師の講義では、信仰基台が外的で実体基台が内的。み言を信じて実践する事が信仰基台であり、そのみ言の実体になった事が実体基台である。と語られています。

 

さあ、どちらが正しいのでしょうか?

従来の内容が正しいと思い込んでいる方からすると「何をバカな事を!この講師はおかしい!反対派の人間じゃないのか?」と言われる方もおられるようです。

 

兼平講師は、反対派ではありませんのでご安心ください。韓国で公的な位置で歩んでおられます。

 

私はこの兼平講師の原理講義に出合う前、本当に悩んでおりました。この道に来てなぜこんになに人格的に乏しい人ばかりなのか。純潔は分かるが一般の人の方が遥かに人格者が多いのはなぜか。裁きの気持ちにもなりました。真のご父母様が血と汗を流し解明して下さった原理を知っているのに。なぜこんなに事なのかと、真剣に悩んでいたのです。

 

私は清平も好きで良くいく方だと思いますが恨霊の影響もあって我々食口は、原理的生活が出来なくなっている事もあるように感じております。

 

しかし、それもある思いますがそもそも原理的生活ってなんだと疑問に思った訳です。純潔を守る事、それだけが原理的生活なのでしょうか?それなら永平寺のお坊さんだって純潔ですよね。

 

このサイトをご覧になられている方は、結構何かしら信仰生活について壁にぶち当たっている方もおられると思います。

でも、それって悪いことじゃないと思います。悩みがある方って成長できる事だと思います。疑問に思うから考えるし、何とか良い方法はないかと思う訳ですし、何よりも頭が柔軟な証拠です。固定概念に囚われている方って共通して人の意見に耳を傾けないです。

 

まあ、そんなこんなで今日の題名に戻りますが、「常識を疑え」ですが皆さんが信仰生活で本当に成長している自身がありますか?ちょっと考えてみてください。

 

成長するために必要な「信仰基台・実体基台」ですが、正しく理解してますか?

 

あなたの発展と幸せを願っています。山見

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